あだ名は「ハゲ」。強すぎるイングランド王に最後は挑んだ、北ウェールズの王「イドワル・ヴォエル」

王さまのあだ名といえば、「大王」「善王」「獅子心王」なんて、かっこいいものを思い浮かべますよね。
ところが10世紀のウェールズには、こう呼ばれた王さまがいます。
「ハゲ」。
名前はイドワル・ヴォエル。「ヴォエル(Foel)」は、ウェールズ語で「髪のない」「ハゲた」という意味です。祖父は「ロドリ大王」、いとこは「ハウェル善王」。立派なあだ名の親戚に囲まれて、なんだか気の毒な気もします。
でもこの王さま、あだ名のわりに(?)、なかなか骨のある生き方をしました。強すぎるイングランドの王に長年頭を下げ続け、最後の最後に剣を抜いたのです。
なお、これからお話しする内容は、中世の年代記や伝説などをもとに僕の解釈も加えたものです。物語としてお楽しみください。
大王の孫、北の国を継ぐ
イドワルの父親は、北ウェールズのグウィネズを治めたアナラウド。そのまた父親が、ウェールズの大部分をまとめたロドリ大王です。
いつ生まれたのかは分かっていません。歴史に名前がはっきり出てくるのは916年、父親アナラウドが亡くなって、イドワルがグウィネズの王になったときからです。
ちなみに、グウィネズには昔「イドワル」という名前の王さまがもう一人いました。7世紀のカドワラドルの息子で、こちらのあだ名は「イウルッフ(ノロジカ)」。鹿とハゲ。同じ名前でも、ずいぶん差がついてしまいました。

イングランドが「お隣の大国」になった
イドワルが王になったころ、東のおとなりは大きく変わりつつありました。
それまでウェールズを何度も攻めてきたマーシアは、ヴァイキングとの戦いで力を落とし、南のウェセックスの王家にのみ込まれていきます。918年、ウェセックスのエドワード王(エドワード長兄王)がマーシアを手に入れると、ウェールズの王たちは次々とエドワードを主君と認めました。
イングランドの年代記には、このとき頭を下げた王として三人の名前が残っています。南のハウェルとその弟クリドウグ、そして北のイドワルです。最初は少し抵抗したとも言われますが、イドワルもここで大国の傘下に入ることになりました。
アゼルスタンの前で、王冠を差し出す
924年、エドワードのあとを継いだのが、息子のアゼルスタンです。アングロ・サクソン人の国々をまとめ上げて「イングランド王国」をつくった、とんでもなく強い王さまでした。
12世紀の歴史家ウィリアム・オブ・マームズベリは、こんな話を書き残しています。
アゼルスタンはウェールズの王たちをヘレフォードに呼びつけ、毎年、金20ポンド、銀300ポンド、牛2万5千頭、さらに猟犬や鷹まで納めるよう約束させた。そして「全ウェールズの王」イドワルに、いったん王国を差し出させ、そのうえで情けをかけて返してやった――。

どこまで本当かは分かりません。書かれたのは200年もあとのことですし、イングランド側から見た、ちょっと盛った話かもしれません。それでも、当時の力関係はよく伝わってきます。
実際、イドワルはアゼルスタンの宮廷にたびたび顔を出し、王の文書には「イドワル」の名前が「下の王(サブレグルス)」として記されています。いとこのハウェルと並んで、イングランド王の家来の一人として扱われていたわけです。
頭を下げ続けた20年
このころのウェールズには、「ブリテンの予言(アルメス・プラダイン)」という詩が残っています。ウェールズ人がアイルランドやスコットランド、ヴァイキングと手を組んで、イングランド人を海の向こうへ追い払う日が来る――そんな夢を歌った詩です。
ウェールズの中には、アゼルスタンに頭を下げ続けることへの不満が、ふつふつとたまっていたのかもしれません。
937年、実際にスコットランドやヴァイキングの連合軍がアゼルスタンに戦いを挑みます。「ブルナンブルフの戦い」です。でも、ウェールズの軍は加わりませんでした。イドワルも、ハウェルも、動かなかったのです。そして連合軍は大敗しました。
あのとき動いていたら……と、イドワルが思ったかどうかは分かりません。
大王が去って、ついに剣を抜く
939年、アゼルスタンが亡くなります。あとを継いだのは、まだ18歳の異母弟エドムンドでした。
するとすぐに、ヴァイキングの王がヨークを奪い、イングランドの北半分が大きく揺らぎます。あの強かったイングランドに、ひびが入ったように見えたことでしょう。
そして942年。イドワルは、ついにイングランドに戦いを挑みます。

なぜこのタイミングだったのか、はっきりした記録はありません。アゼルスタンがいなくなった今こそ、と考えたのかもしれません。あるいは、イングランドと仲よくするいとこハウェルが、イングランドの後ろ盾で自分の国までのみ込んでしまう、と恐れたのだという見方もあります。
結果は、悲しいものでした。ウェールズの年代記は、短くこう伝えています。イドワルと弟のエリセッズは、イングランド人に殺された、と。
国は、いとこの手に
イドワルが亡くなると、本来ならグウィネズは息子のイアゴとイエヴァフが継ぐはずでした。ところが、そこへ南から乗り込んできたのが、いとこのハウェル善王です。
ハウェルは二人の息子を追い出してグウィネズを手に入れ、ウェールズのほぼ全域を治める王になりました。ずっとイングランドと手を組んできたハウェルは、ここで一番大きな果実を手にしたわけです。
でも、イドワルの家はここで終わりませんでした。949年か950年にハウェルが亡くなると、追い出されていたイアゴとイエヴァフはすぐに戻ってきて、父親の国を取り返したのです。
ハゲ王の血は、プリンスたちへ
さらに時代が下ると、イドワルの息子の一人メウリグの子孫から、11世紀の終わりにグリフィズ・アプ・コナンが現れます。長い南北の争いを終わらせ、グウィネズを立て直した王です。
その子孫が、オウァイン・グウィネズ、ラウェリン大王、そしてラウェリン・ザ・ラストと続く、プリンス・オブ・ウェールズの時代の英雄たち。つまり、中世ウェールズを最後まで背負った北の王家は、このハゲ王イドワルの血を引いているのです。
イドワル・ヴォエルはどんな人物だったのか
正直に言うと、イドワルについて分かっていることは多くありません。ウェールズの年代記に出てくるのは、ほとんど亡くなった年のことだけです。
それでも、残された記録を並べてみると、一人の王さまの姿が浮かんできます。大国イングランドの前で、20年以上も頭を下げ続けた。いとこのハウェルのように、それを上手に利用することはできなかったけれど、最後には自分の国の誇りをかけて立ち上がった。
うまく立ち回ったハウェルが「善王」と呼ばれ、まっすぐ挑んだイドワルが「ハゲ」と呼ばれる。歴史って、ちょっと不公平ですよね。でも、彼が守ろうとした北の王家は、そのあと300年以上もウェールズを背負い続けることになります。
あだ名の話はウェールズ王のあだ名の記事で、いとこハウェルの物語はハウェル善王の記事で紹介しています。この時代の流れは統一時代の記事、祖父の物語はロドリ大王の記事、叔父の物語はカデル・アプ・ロドリの記事もどうぞ。





