「プリンス・オブ・ウェールズ」はこうして生まれ、こうして奪われた――黄金期から独立の終焉まで

プリンス・オブ・ウェールズとは、もともとウェールズの統治者のなかでも特に大きな支配力を持った人物が宣言し、イングランド王にその地位を認めさせた称号でした。今回は、この称号を掲げた統治者たちが、イングランドを征服したノルマン人の王朝と激しく渡り合った、11世紀後半から13世紀末までの物語です。黄金期あり、骨肉の争いあり、悪名高いジョン王との駆け引きあり。そして最後には、ウェールズ人によるウェールズ統治の終わりが待っています。

ヘンリー2世を二度も撃退!父子でつくった70年の黄金期
前回お話ししたように、グリフィズ・アプ・コナンはグウィネズをめぐる内乱(南北朝時代)を終わらせ、ノルマン朝イングランドの侵略も退けて、ウェールズに新しい時代をもたらしました。これまでウェールズの平和が長続きしたのは、ロドリ大王やハウェル善王の時代くらい。ところがグリフィズはグウィネズの統治者を56年ほど務め(国を取り戻してからでも約35年)、さらに息子の時代まで含めて比較的平和な時代が続きます。これが中世ウェールズの黄金期です。
後を継いだ息子のオウァイン・アプ・グリフィズは、軍事にも力を注ぎ、父から受け継いだグウィネズにとどまらず、南東部を除くウェールズのほぼ全域に影響力を広げました。同盟相手だったデハイバースの統治者が弟に殺されたと知ると、即座に軍を送って弟を追放し、デハイバースをグウィネズに統合。次に目を向けたのが、常にイングランドの侵略にさらされていた東部です。
1135年にイングランド王ヘンリー1世が亡くなると、甥スティーブンと娘マティルダの間で後継争いが起き、イングランドは内乱状態に陥ります。オウァインはこの隙をついて、奪われていた土地を取り戻すだけでなく、国境を東へと押し広げていきました。
もちろんイングランドも黙ってはいません。内乱が収まった1154年、マティルダの息子ヘンリー2世が即位します。イングランドだけでなくフランスの大部分も領有し、「アンジュー帝国」と呼ばれる巨大な勢力を誇った王です。そのヘンリー2世が、勢いづくオウァインを叩こうと何度も攻め込んできました。
1157年、ヘンリー2世は自ら大軍を率いてウェールズへ侵攻します。各地を破壊しながら進むイングランド軍に対し、オウァイン軍は山林に潜んでじっと時を待ちました。そして敵が身動きの取りにくい狭い場所に差しかかった瞬間、一気に襲いかかります。不意を突かれたイングランド軍は総崩れ。ヘンリー2世自身も危うく捕虜になりかけ、命からがら逃げ帰りました。

屈辱を晴らそうと、ヘンリー2世は1165年に再び侵攻します。今度はオウァインがウェールズ中の統治者の協力を得て連合軍を組織。奇襲を仕掛けたイングランド軍は逆に見つかって撃退され、豪雨にまで見舞われて散り散りに逃げ帰ります。これに懲りたヘンリー2世は、二度とウェールズを攻めることはありませんでした。
大国の王を二度も打ち負かしたオウァインは、国の名を冠して「オウァイン・グウィネズ」、あるいは「オウァイン大王」と呼ばれます。彼は自らを「プリンス・オブ・グウィネズ」と称し、これが「プリンス・オブ・ウェールズ」というスタイルの始まりになりました。父グリフィズと息子オウァイン、二人の統治を合わせた約70年は、ウェールズが統一と独立を確保した黄金時代だったのです。
英雄、色を好みすぎる――子だくさんが招いた王室史上最悪の地獄
「英雄色を好む」と言いますが、オウァイン大王もその例に漏れませんでした。分かっているだけで妻と妾は6人以上、息子は18人以上、娘は4人以上。そしてこの子だくさんが、ウェールズを危機に陥れることになります。
当時のウェールズ法では、全体の統治者は一人でも、正室・側室・妾の子にかかわらず、すべての息子に均等に財産を相続する権利がありました。息子が多ければ多いほど取り分は小さくなり、争いの火種になります。溺愛した長男を戦で亡くしたオウァインは、片腕として活躍した次男ハウェルを後継者に指名していました。
1170年にオウァインが亡くなり、ハウェルが後を継ぎます。ところがこれを快く思わない人物がいました。オウァインの妾クリスティンです。彼女はオウァインの従妹で、教会が従妹との結婚を禁じていたにもかかわらず、オウァインは破門されてまで結婚していました。そのクリスティンが産んだ3人の息子が反逆を起こし、ハウェルを殺害。六男ダヴィッズが統治者の座を奪ってしまいます。オウァインの存命中からクリスティンが準備していたという説まであるほどです。
そしてここからが、ウェールズ王室始まって以来の地獄でした。
- 1170年:異母兄ハウェルを殺害
- 1173年:異母兄マエルグウィンを国外追放
- 1174年:マエルグウィンを投獄(獄死)
- 1174年:実弟ロドリを投獄
- 1174年:異母兄イオルウェルスが戦死(ダヴィッズの差し金か)
- 1174年:実弟コナンが死去(暗殺か)

兄弟の遺産を狙ったのか、次は自分が狙われると恐れたのか。ダヴィッズは残る兄弟たちを次々と殺すか投獄し、父の領土と遺産を独り占めにしました。ウェールズ史上でも類を見ないほど身内を手にかけた人物です。さらに1174年には、イングランド王ヘンリー2世の妹エンメと結婚。イングランドの力を後ろ盾に、周囲を黙らせたのでしょう。
6年待った孫たちの逆襲
そこに一筋の光が差し込みます。人々が希望を託したのは、オウァイン大王の孫たち、ラウェリン、グリフィズ、マレディズの3人でした。なかでもラウェリンは、オウァイン大王と正妻の間に生まれたイオルウェルスの息子で、正統な後継の権利を持っていました。
3人はラウェリンを中心に、密かに打倒ダヴィッズの準備を進めます。グウィネズの人々も教会も彼らを支持し、その時を待ち望みました。機会をうかがうこと6年。1194年、ラウェリンたちはついに兵を挙げ、北ウェールズのアバコンウィーでダヴィッズ軍と激突します。勢いに勝るラウェリン軍は勝利を収め、ダヴィッズを捕らえて投獄しました。

こうしてラウェリンはグウィネズの統治者となります。しかし、周囲にはまだ手強い相手が控えていました。
義父はあのジョン王――同盟ひとつで四面楚歌に
最初のライバルは、隣国ポウィスの統治者グウェンウィンウィンです。彼もまたウェールズのリーダーの座を狙っており、勢力を伸ばすラウェリンが気に入りません。1202年、ついに両者の間で戦いが起こります。さらに1208年、グウェンウィンウィンがジョン王と仲たがいすると、ラウェリンはその機会を逃さずグウェンウィンウィンの領土へと勢力を広げ、ウェールズのリーダー的な存在となっていきました。
しかしグウェンウィンウィン以上の脅威が、イングランドでした。当時の王は、ヘンリー2世の息子ジョン王。このジョン王とグウェンウィンウィンとの関係に、ラウェリンは悩まされ続けることになります。
ラウェリンはまず、平和を守るためにイングランドとの関係づくりに動きました。ジョン王に忠誠を誓うだけでなく、その娘ジョアンと結婚したのです。争いを避けると同時に、自らの地位を固める狙いもあったのでしょう。さらに、国境付近で争っていたイングランドの有力貴族ウィリアム・デ・ブロースとも同盟を結び、平和的な解決を図ります。ところが、この同盟がまずかった。
ちょうどその頃、ジョン王はウィリアムと対立しており、二人の同盟に激怒します。ジョン王は、かつてラウェリンに領土を奪われたグウェンウィンウィンと和解して手を組み、攻撃を仕掛けてきました。これを見たウェールズ各地の統治者たちまでジョン王側についてしまいます。孤立無援となったラウェリンは1211年、多数のウェールズ軍まで従えたジョン王に完敗し、領土のほとんどを没収されてしまいます。同胞にまで背かれては、さすがのラウェリンも万事休すかと思われました。

悪王の自滅とマグナカルタ、そして「ラウェリン大王」へ
ところが、ジョン王は稀代の悪王でした。無駄な戦いを繰り返し、そのたびに重税を課す。味方についた諸侯や統治者たちからも、次第に不満の声が上がります。ウェールズの統治者たちはジョン王を見限って再びラウェリンのもとに集まり、その中にはあのグウェンウィンウィンの姿もありました。イングランドの諸侯たちまでラウェリンを支持するようになります。
不満はついに爆発し、今度はジョン王が廃位の危機に立たされます。1215年、事態を収めるためにジョン王がやむなく認めたのが、国王の権限を制限する「マグナカルタ」でした。これにより、奪われた領土はラウェリンに戻り、統治権も認められ、人質に取られていた長男グリフィズたちも帰ってきました。

しぶといジョン王はなおもグウェンウィンウィンと再び手を組んで攻撃を仕掛けますが、そこまででした。翌年、フランスの支援を受けたイングランド貴族たちとの戦いの最中に、赤痢で病死。時を同じくしてグウェンウィンウィンも亡くなります。1216年、ラウェリンは本拠地グウィネズに加えてポウィスも直接支配し、ウェールズの広い範囲を治めるようになりました。こうして彼は「ラウェリン大王」と呼ばれ、1240年に亡くなるまで偉大な統治者として君臨したのです。


ラウェリンとジョン王の関係を整理しておきましょう。
- 1197年:ウェールズのリーダー的存在となる
- 1201年:ジョン王と同盟
- 1202年:グウェンウィンウィンとの間で戦いが起こる
- 1205年:ジョン王の娘ジョアンと結婚
- 1208年:ジョン王と仲たがいしたグウェンウィンウィンの領土へ勢力を広げる
- 1210年:ジョン王と不仲のウィリアム卿と同盟。グウェンウィンウィンと和解したジョン王から攻撃を受ける
- 1211年:ウェールズ諸侯を味方につけたジョン王に大敗し、領土の大部分を失う
- 1215年:ジョン王がマグナカルタを制定。奪われた領土と人質が返還される
- 1216年:ジョン王とグウェンウィンウィンが死去。ラウェリンがウェールズでの地位を確立
- 1240年:ラウェリン死去(1172年生まれ)
大王最大の汚点――溺愛が招いた兄弟の悲劇
祖父オウァイン大王は、子だくさんと破門覚悟の結婚の末に、息子たちの骨肉の争いを招きました。実は孫のラウェリン大王も、後継者問題でつまずきます。これが彼の最大の汚点と言えるでしょう。
ラウェリン大王には、長男グリフィズと次男ダヴィッズという二人の息子がいました。グリフィズはウェールズ人の正妻との子で、ウェールズ法では彼に後継の資格があります。ところが大王は、ウェールズ法上は非嫡出子にあたるダヴィッズを溺愛し、後継者にしようと考えました。
そのやり方は強引でした。グリフィズを何度も人質としてイングランドに送り、その間に着々と手はずを整えていったのです。ローマ教皇ホノリウス3世への働きかけ、後継に関するウェールズ法の一部改定、イングランド王ヘンリー3世への説得、そしてウェールズ諸侯に圧力をかけてダヴィッズへ忠誠を誓わせる、という徹底ぶりでした。
なぜそこまでしたのか。理由は二つ考えられます。ひとつは、グリフィズの気性の激しさ。領土を分け与えれば圧政を繰り返して不評を買い、大王自身も手を焼いていました。もうひとつは、ダヴィッズの母ジョアンがジョン王の娘だったこと。イングランドとの良好な関係を保つうえで、ダヴィッズの方が都合が良かったのでしょう。
策略の甲斐あって、ダヴィッズは後継者として認められます。統治者となったダヴィッズは偉大な称号を宣言し、イングランドにも認めさせました。公式には、彼が初代のプリンス・オブ・ウェールズです。
しかし1240年に大王が亡くなると、状況は一変します。本来の正統な後継者グリフィズを支持する人々が、イングランド寄りのダヴィッズに反旗を翻したのです。怒ったダヴィッズはグリフィズの領土を攻めて略奪し、奪い取りました。
これを知ったグリフィズは、人質として軟禁されていたロンドン塔からの脱出を図ります。反乱軍に加わるつもりでした。ところが、巨漢だったことが仇となり、脱出の最中に転落死してしまいます。

一連の動きをしたたかに眺めていたのが、イングランド王ヘンリー3世です。一度はダヴィッズを支持しておきながら態度を急変させ、地位の承認を白紙に戻したうえで攻撃を仕掛けてきました。ダヴィッズは対抗しようと兵を挙げますが、病で急死。ウェールズは混乱のなかで、さらに弱体化していきます。
最後の砦「ラウェリン・ザ・ラスト」と、1282年の終焉

ここで登場するのが、ウェールズ王室の「最後の砦」、ラウェリン・アプ・グリフィズです。人々は彼を「ラウェリン・ザ・ラスト」と呼びます。大王に疎まれたあのグリフィズの息子で、1246年にダヴィッズの後を受けてグウィネズを継ぎました。
ラウェリンはウェールズの独立にこだわりました。ヘンリー3世への忠誠を拒み、1257年には反対する兄弟を投獄して従わせます。隣国のポウィスやデハイバースからは武力で領土を奪い、諸侯に忠誠を誓わせて、ウェールズの大部分を支配下に置きました。1258年にはプリンス・オブ・ウェールズを名乗り、1267年、ヘンリー3世とモンゴメリー条約を結んで、その地位を正式に認めさせます。
ただし、彼には弱点がありました。愛国心は強かったものの、これまでの統治者と違って力ずくで権力を握ったため、諸侯からの人望がなかったのです。
1272年にエドワード1世がイングランド王になると、その弱点が一気に表に出ます。領土を奪われていたイングランドの貴族たちが反撃を始め、多くのウェールズ諸侯までもがラウェリンから離反して、イングランドと和平を結んでしまいました。1277年、エドワード1世に攻められたラウェリンは孤立したままなす術なく敗れ、イングランドに有利なアバコンウィー協定を結ばされて、領土は大幅に縮小。以後、諸侯の多くはエドワード1世につき、ウェールズはまるでイングランドに占領されたかのような状態になります。
ところが、イングランドによる権力の押し付けや、ウェールズに不利なイングランド法の強要が続くと、人々の間に大きな反感が募っていきました。やはり従うべきはイングランドではなく、ウェールズの王だ、と。
1282年、ラウェリンの弟ダヴィッズが起こした反乱は、ウェールズ中に広がります。ラウェリンもこれに加わりました。しかし準備不足のうえ弱体化していたウェールズ軍は、各地でイングランド軍に敗北。独立にこだわり続けたラウェリンも、やむなく降伏してエドワード1世と協定を結ぼうと考えます。ところが今度は弟ダヴィッズが停戦を拒み、戦いをやめようとしませんでした。
弟に引きずられるように戦い続けたラウェリンでしたが、もはやイングランド軍に対抗する力は残っていませんでした。オレウィン橋の戦いで敗れ、川沿いで捕らえられて戦死。後を継ぐ形でプリンス・オブ・ウェールズを宣言して戦い続けたダヴィッズも、1283年に捕らえられ処刑されました。

この敗北によって、ウェールズは事実上イングランドの支配下に置かれます。1282年、ウェールズ人によるウェールズ統治は終わりを迎えました。ラウェリンが「ザ・ラスト(最後の人)」と呼ばれるのは、そのためです。
この時代の年表
- 11世紀後半〜12世紀前半:グリフィズ・アプ・コナンがイングランドからウェールズを奪回し、独立を確保
- 1137年:オウァイン・グウィネズが統治者に。父の時代から約70年の黄金時代を築く
- 1170年:オウァイン死去。ダヴィッズがハウェルを殺害して統治者の座を奪い、兄弟を次々と手にかける
- 1194年:ラウェリン・アプ・イオルウェルスがダヴィッズを破り、統治者となる
- 1205年:ラウェリン、ジョン王の娘ジョアンと結婚
- 1210年:ラウェリン、ジョン王と決裂。以後争いが続く
- 1215年:ジョン王がマグナカルタを制定。奪われた領土と人質がラウェリンに返還される
- 1216年:ジョン王と宿敵グウェンウィンウィンが死去。ラウェリンがウェールズでの地位を確立
- 1240年:ラウェリン大王死去。非嫡出子ダヴィッズが後継し、正統なグリフィズ派と対立
- 1246年:ダヴィッズ死去。グリフィズの息子ラウェリン・アプ・グリフィズが後継
- 1258年:ラウェリン、プリンス・オブ・ウェールズを名乗る
- 1267年:ヘンリー3世とモンゴメリー条約を結び、プリンス・オブ・ウェールズの地位を認めさせる
- 1277年:イングランドに有利なアバコンウィー協定を結び、勢力を縮小
- 1282年:弟ダヴィッズがイングランドに反乱。ラウェリンはオレウィン橋の戦いで戦死
- 1283年:ダヴィッズも捕らえられ処刑
それでも称号は生き残った――王冠の行方と“鉄の輪”の城
ウェールズ人による統治は終わったのに、プリンス・オブ・ウェールズという称号は今も続いています。なぜでしょうか。
ラウェリンが戦死した時、プリンス・オブ・ウェールズの王冠もイングランド軍に奪われ、持ち去られました。これに怒ったウェールズでは反乱が頻発します。そこでエドワード1世は一計を案じました。王子をウェールズの城で産ませ、ウェールズの環境で育てたのです。ウェールズで生まれ育ち、ウェールズ語を話す王子(後のエドワード2世)をプリンス・オブ・ウェールズに据えることで、人々の反感を抑え込もうとしたのでした。以後、この称号はイングランド王の皇太子が務める習わしになります。

さらにエドワード1世は、ウェールズを監視するために、北ウェールズにコンウィ城、ビューマリス城、カナーヴォン城、ハーレック城といった巨大な要塞を次々と築きました。ウェールズに今も多くの城が残っているのはこのためです。ただし、その多くはウェールズ人が築いた城ではなく、イングランドが築いた城。これら一連の城は「アイアンリング(鉄の輪)」と呼ばれ、現在は世界遺産に登録されています。
ちなみにエドワード2世が生まれたのはカナーヴォン城。『天空の城ラピュタ』の一場面のモデルとも言われ、チャールズ皇太子(当時)のプリンス・オブ・ウェールズ叙任式にも使われました。城を訪れる機会があれば、ここまで語ってきたウェールズの歴史を思い出していただくと、きっと感慨深く楽しめるはずです。
ウェールズ史全体の流れは、中世ウェールズ史を8つの時代でたどる記事でも紹介しています。





