『すべての王の中でいちばん慈悲深い』と書かれたウェールズ王『ブレディン・アプ・カンヴァン』

想像してみてください。
自分の兄が、敵に追いつめられて命を落とした。その直後、兄を追いつめた張本人がやってきて、こう言うのです。「兄の国は、お前にやろう。そのかわり、こちらに従え」と。
あなたなら、どうしますか?
11世紀のウェールズに、本当にこの立場に立たされた王がいました。その名は、ブレディン・アプ・カンヴァン。ところがこの人、のちに年代記で「すべての王の中でいちばん慈悲深い」とたたえられるほど、人々に愛された王になるのです。
今回は、屈辱から始まったブレディンの生涯を、ゆる〜くご紹介します。
なお、これからお話しする内容は、中世の年代記や伝説などをもとに僕の解釈も加えたものです。物語としてお楽しみください。
王の母から生まれた、もう一人の息子
ブレディンの母は、アングハラドという女性です。名高い王マレディズ・アブ・オウァインの娘で、最初の夫は北と南を治めた王ラウェリン・アプ・セイサルでした。
1023年、そのラウェリンが突然亡くなります。夫を失ったアングハラドは、のちにカンヴァンという男と再婚しました。カンヴァンは、ポウィス(ウェールズの中東部)の貴族だったと言われていますが、記録がほとんど残っていない、謎の多い人物です。
この二人のあいだに生まれたのが、ブレディンと弟のリワロン。生まれたのは1020年代の終わりごろと考えられています。
つまりブレディンには、父親ちがいの兄がいたことになります。その兄こそ、のちにウェールズ全土を一人で治める王になる、グリフィズ・アプ・ラウェリンでした。
兄の死と、敵からの「贈り物」
兄グリフィズがウェールズの王として大暴れしていたころ、弟のブレディンが何をしていたのかは、ほとんど記録がありません。ポウィスで暮らし、「赤い狼」とあだ名された領主キリンの娘、ハエルを妻に迎えたと伝わっています。義理の父のあだ名が「赤い狼」。なかなか迫力がありますね。
そんな静かな日々は、1063年に終わりを告げます。
イングランドの実力者ハロルド(のちのイングランド王ハロルド2世)が、弟トスティとともにウェールズへ攻め込んできたのです。追いつめられた兄グリフィズは、山の中で自分の家来たちの手にかかって命を落としました。
ここで、ハロルドは意外な手を打ちます。ウェールズをまるごと自分のものにするのではなく、北のグウィネズとポウィスを、グリフィズの異父弟であるブレディンとリワロンの兄弟に任せたのです。南の国々は、もとの王家の人々に返されました。
ただし、タダではありません。兄弟はイングランド王エドワードとハロルドに忠誠を誓い、人質を差し出しました。兄を死に追いやった相手に頭を下げて、兄の国を受け取ったわけです。
ブレディンが心の中で何を思っていたのか、記録は何も語っていません。でも、悔しくなかったはずはない、と僕は思います。

ノルマン人がやってきた
ところが、それからわずか3年後。イングランドがひっくり返る大事件が起きます。
1066年、ハロルドはイングランド王になりますが、その年のうちに、海を渡ってきたノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム征服王)にヘイスティングスの戦いで敗れ、命を落としました。イングランドは、ノルマン人の国になったのです。
ブレディンが忠誠を誓った相手は、もういません。そして新しくやってきたノルマン人は、ウェールズにとっても危ない相手でした。
ブレディンは、ここで腹をくくります。
1067年、ブレディンとリワロンは、イングランド西部でノルマン人に抵抗していたアングロ・サクソン人の豪族、「野生のエドリック」と手を組みました。そして国境の町ヘレフォードのノルマン人を攻め、ラグ川のあたりまで土地を荒らし回ったのです。
翌1068年には、マーシア伯エドウィンとノーサンブリア伯モルカールの反乱にも加わります。実はこのエドウィンとモルカール、兄グリフィズの盟友だったエルファガーの息子たちでした。かつて兄の味方だった家の息子たちと、今度は弟が手を組んだわけです。
ノルマン人がイングランドを征服したころ、ブレディンはウェールズでいちばん力のある王になっていました。

兄の息子たちとの戦い
でも、ブレディンの敵は外だけではありませんでした。
1070年、兄グリフィズの息子たちが、「この国は父のものだ」とばかりに立ち上がります。叔父と甥が、国をかけて戦うことになったのです。
ポウィスのメハインで起きたこの戦いは、悲しい結末を迎えました。グリフィズの息子二人は、一人は戦場で、もう一人は逃げる途中で命を落とします。そしてブレディンの弟リワロンも、この戦いで亡くなりました。
ブレディンは、北のグウィネズとポウィスを一人で治める王になります。でもそのために、弟と、兄の忘れ形見を失ったのでした。

間一髪のブレディン
ノルマン人は、ウェールズにもじわじわと迫ってきます。
北ウェールズの国境では、リズランのロバートというノルマン人の騎士が、クルーイド川のほとりに城をかまえていました。リズランといえば、兄グリフィズがハロルドに館を襲われた場所です。
1073年、ロバートは、ブレディンをこっそり待ち伏せして捕らえようとします。ブレディンは間一髪で逃げのびましたが、たくさんの戦利品を奪われてしまいました。
ノルマン人の手は、もうすぐそこまで伸びていたのです。
家の広さまで決めた王
ブレディンは、戦うだけの王ではありませんでした。
ウェールズには、ハウェル善王がまとめたと伝えられる法律があります。ブレディンは、この法律を自分の手で直した、数少ない王の一人なんです。
たとえば、家族が受け継ぐ「家と畑の広さ」。ブレディンは、身分によってそれを決め直したと言われています。貴族なら12エーカー、自由のない小作人なら8エーカー、もっと身分の低い人なら4エーカー、という具合です。もっとも、法律書には「実際は身分に関係なく4エーカーとされることが多い」とも書かれているので、どこまで守られていたのかは分かりません。
それでも、ブレディンが直した法律は、その後も子孫が治めるポウィスで使われ続けたと言われています。
裏切りの南で
1075年、ブレディンは思いがけない最期を迎えます。
南のティウィ川の谷、イストラッド・ティウィの有力者たちが、ブレディンを裏切ったのです。そしてブレディンは、デハイバースのリース・アブ・オウァインの手にかかって命を落としました。年代記は、その有力者たちを「心のねじけた」者たちと書いています。
ブレディンの死は、ウェールズの人々に大きな衝撃を与えました。
3年後の1078年、ブレディンのいとこで、グウィネズを継いだトラハエアルンが、グッドウィックの戦いでリースを打ち破ります。年代記は、このとき「ブレディンの血のかたきが討たれた」と書いています。敗れたリースは、「猟犬に追われるおびえた鹿のように」茂みや岩のあいだを逃げまどい、その年のうちに別の王に討たれました。

ブレディン・アプ・カンヴァンはどんな人物だったのか
最後に、ブレディンの生涯を年表でおさらいしておきましょう。
- 1020年代の終わりごろ:アングハラドとカンヴァンの息子として生まれる
- 1063年:兄グリフィズが亡くなり、ハロルドからグウィネズとポウィスを任される
- 1066年:ハロルドがノルマン人に敗れて戦死
- 1067年:「野生のエドリック」と組んでヘレフォードのノルマン人を攻める
- 1068年:エドウィンとモルカールの反乱に加わる
- 1070年:メハインの戦いでグリフィズの息子たちを破る。弟リワロンも戦死
- 1073年:リズランのロバートの待ち伏せを間一髪で逃れる
- 1075年:イストラッド・ティウィの有力者たちに裏切られ、リースの手で命を落とす
- 1078年:トラハエアルンがグッドウィックの戦いでリースを破る
年代記は、ブレディンのことを、こんなふうに書き残しています。
「すべての王の中でいちばんおだやかで、いちばん慈悲深い。人から傷つけられないかぎり、だれも傷つけなかった。親族にやさしく、孤児や弱い者、未亡人の守り手で、教会の支えだった。だれにでも気前がよく、戦いではおそろしく、平和なときには愛された。」
兄を倒した敵から国を受け取るという、屈辱のスタート。それでもブレディンは、新しい侵略者ノルマン人に立ち向かい、法律を整え、弱い人を守る王として人々の心に残りました。
そして、ブレディンの物語はここで終わりません。息子たちの代から、ブレディンの子孫は13世紀の終わりまで、ポウィスを治め続けます。歴史家ショーン・デイヴィスは、ブレディンについての本に『最初のプリンス・オブ・ウェールズ?』という題をつけました。ウェールズの王たちの中でも、それだけ大きな存在だったということなのでしょう。
ブレディンが活躍した時代の流れは南北朝時代の記事で紹介しています。異父兄の物語はグリフィズ・アプ・ラウェリンの記事、母方の祖父の物語はマレディズ・アブ・オウァインの記事もどうぞ。





