バラバラのウェールズを初めてひとつに! ヴァイキングも退けた「ロドリ大王」

「大王」と呼ばれる王さまって、世界の歴史にもそれほど多くありません。アレクサンドロス大王、カール大帝、イングランドならアルフレッド大王。
実はウェールズにも、そう呼ばれた王さまがいます。小さな国に分かれてバラバラだったウェールズを、初めてその大部分までまとめ上げた人物。しかも、ほとんど戦わずに、です。
名前はロドリ・アプ・メルヴァン。ウェールズ語では「ロドリ・マウル」、つまり「ロドリ大王」です。
なお、これからお話しする内容は、中世の年代記や伝説などをもとに僕の解釈も加えたものです。物語としてお楽しみください。
分ければ分けるほど、国は小さくなる
まずは、ロドリが生まれたころのウェールズの事情から。
中世のウェールズには、ちょっと変わったしきたりがありました。親が亡くなると、土地や財産を息子たち全員で均等に分けるんです。長男がまとめて継ぐのではなく、みんなで山分け。
公平といえば公平ですが、王家でこれをやると大変です。代替わりのたびに国が細かく分かれ、兄弟どうしの争いも起こりやすくなります。そのためウェールズは、北のグウィネズ、東のポウィス、南西のセイサルウィグやダヴェッドなど、いくつもの国に分かれたままでした。
そこへ東からはアングロ・サクソン人の強国マーシアが、海からはヴァイキングが押し寄せてきます。バラバラのままでは、とても太刀打ちできません。
マン島から来た王の息子
ロドリは820年ごろ、北ウェールズのグウィネズで生まれたとされています。
名前の「アプ」は「〜の息子」という意味。つまり「メルヴァンの息子ロドリ」です。父のメルヴァンは、海の向こうのマン島からやってきて、母方の血筋を頼りにグウィネズの王になった人物。母のネストは、隣の国ポウィスの王家の出身でした。
844年に父メルヴァンが亡くなり、ロドリはグウィネズの王になります。
ただ、王になってすぐに順風満帆だったわけではありません。853年には、マーシアとウェセックスというアングロ・サクソンの二大国がそろってウェールズに攻め込み、ウェールズの王たちを従わせています。ロドリも頭を下げた一人だったかもしれません。
母の実家、ポウィスを受け継ぐ
最初のチャンスは855年にやってきます。
ポウィスの王カンゲンは、ロドリの母ネストの兄、つまりロドリの伯父さんです。そのカンゲンが、ローマへの巡礼の旅の途中で亡くなったのです。
カンゲンには息子たちもいました。ふつうならその息子たちが国を継ぐところです。ところが、ポウィスの王になったのはロドリでした。
「伯父上の国は、僕が守ります」
母方の血筋を理由に迎えられたのか、それともマーシアに苦しむポウィスの人々が、頼れる隣国の王を選んだのか。くわしいことは分かっていません。いずれにしても、ロドリはこうして北ウェールズから東ウェールズまでを手にしました。
ヴァイキングの首領を討ち取る
その翌年、856年。ウェールズに大きな危機が訪れます。
デンマーク系のヴァイキングを率いる首領ゴルムが、ウェールズに攻め込んできたのです。
ロドリはこれを迎え撃ち、ゴルムを討ち取りました。この勝利は、アイルランドの年代記にもしっかり書き残されています。さらに、海を越えたフランク王国(今のフランスやドイツのあたり)の宮廷でも、この勝利をたたえる詩が詠まれたと言われています。ヴァイキングに苦しんでいたのは、ヨーロッパじゅう同じだったんですね。

結婚がつないだ南の国
ロドリの妻は、アングハラドという女性です。彼女は南西の国セイサルウィグの王グワゴンの妹でした。

871年か872年のこと。そのグワゴンが、川で溺れて亡くなってしまいます。グワゴンには跡継ぎの息子がいませんでした。そこで、妹の夫であるロドリが、セイサルウィグも治めることになったのです。
こうしてロドリは、グウィネズ、ポウィス、セイサルウィグと、ウェールズの大部分をひとつにまとめ上げました。大きな戦争で奪い取ったのではなく、血のつながりと結婚の縁で広げていったところが、ロドリのすごいところです。

ちなみに最近の研究では、「ロドリが本当にポウィスやセイサルウィグまで支配していたのかは、はっきりしない」という慎重な見方もあります。それでも、後の時代の人々にとってロドリが「ウェールズをまとめた王」だったことは変わりません。
島での敗北、そして最期
ところが、晩年のロドリには試練が続きます。
877年ごろ、ヴァイキングがふたたびグウィネズに攻め込み、アングルシー島で戦いになりました。日曜日に戦われたことから「日曜日の戦い」と呼ばれるこの戦いで、ロドリは敗れてしまいます。ロドリは海を渡り、アイルランドへ逃れました。
翌年、ロドリはウェールズに戻ってきます。しかし今度は東のマーシアが、王セオルウルフに率いられて攻めてきました。ロドリはこの戦いで、息子のグリアドとともに命を落とします。878年のこととされています(877年とする記録もあります)。

「ロドリのための、神の復讐」
それから3年後の881年。ロドリの息子アナラウドが、コンウィ川のほとりでマーシア軍を打ち破ります。ウェールズの年代記は、この戦いを「ロドリのための神の復讐」と書き残しました。
ロドリの国は、息子たちが受け継ぎました。長男アナラウドがグウィネズを、カデルが南のセイサルウィグを、そしてメルヴァンがポウィスを治めたと伝えられています。生前に父から国を分けてもらい、兄弟が協力して治めた、という伝承もあります。でも実際には、兄弟はやがて争うようになり、ウェールズは再び分かれていきました。
それでも、アナラウドの子孫からは北ウェールズのアバファラウ家が、カデルの子孫からは南ウェールズのディナヴァウル家が生まれます。カデルの息子は、のちにウェールズ法をまとめたハウェル善王です。中世ウェールズの王たちは、こぞって「ロドリ大王の子孫であること」を王の資格として名乗るようになりました。
ロドリ大王はどんな人物だったのか
ロドリについて、たしかに分かっていることは多くありません。
でも、記録に残る足どりを追うだけでも、その人柄が少し見えてきます。母の実家を受け継ぎ、妻の実家も引き受けて、ほとんど戦わずに国を広げた。それでいて、ヴァイキングが攻めてきたときには、真正面から立ち向かって打ち破った。
戦うべきときと、戦わずにすむときを見極められる王。バラバラになりがちなウェールズにとって、ロドリはまさに「まとめ役」でした。だからこそ後の人々は、敬意をこめて彼を「大王」と呼んだのでしょう。
ロドリ大王が登場する時代の流れは統一時代の記事で、父メルヴァンの物語はメルヴァン・ヴリッヒの記事で紹介しています。ウェールズの王たちのユニークなあだ名が気になる方はウェールズの王さまのあだ名の記事もどうぞ。





