隣人同士のケンカが、まさかの大帝国侵攻を招いた話――ローマとブリタニアの攻防

ブリテン島の大半が「ブリタニア」と呼ばれ、ローマ帝国に支配されていた時代。今回は、ブリタニアがどうやってローマに征服され、そして支配下でどう生きていたのかを追ってみましょう。

隣人同士のケンカが、まさかの大帝国侵攻を招いた

ローマが攻めてくる前、1世紀初めのブリタニアは、ケルト系ブリトン人の小国がそれぞれの首長のもとに分立している状態でした。なかでも最大勢力を誇っていたのが、カトゥヴェラウニ族の首長カラタクス。シェイクスピアの戯曲にも登場するシンベリン(ローマ名クノベリヌス)の息子です。
事の発端は、隣国アトレバテス族をめぐるいざこざでした。この国はローマ寄りの人物ヴェリカが事実上治めていたのですが、勢力拡大を狙うカラタクスがこれを征服してしまい、ヴェリカはローマへ亡命。カラタクスへの恨みを胸に、ヴェリカはローマ皇帝クラウディウスに直訴します。これがきっかけとなり、紀元43年、将軍アウルス・プラウティウス率いる約4万のローマ軍がブリタニアへ侵攻。本格的な戦争が始まりました。
カラタクスは弟とともにゲリラ戦で応戦しますが、統率の取れたローマ軍には敵わず弟は戦死、南東の領土は事実上失われ、要塞のあったコルチェスターはローマの植民都市になってしまいます。それでもカラタクスは諦めません。5年後の48年、今度は現在のウェールズにあたるシルレス族・オードヴィケス族を率いて徹底抗戦しますが、再び敗北。妻と娘は捕らえられ、兄弟たちも降伏してしまいます。
かろうじて逃げ延びたカラタクスは、ブリタニア北部のブリガンテス族を頼りますが、女王カルティマンドゥアに裏切られ、ローマ軍へ引き渡されてしまいました。戦犯としてローマに送られ、処刑を待つ身となったカラタクス。ところが処刑前、ローマ元老院でのスピーチの機会を得ると、敗者としての誇りを失わず、それでいてローマの栄光を称えるという見事な演説でローマ人たちの心をつかみ、まさかの恩赦。そのままローマで生涯を終えることになりました。
敗れても、抵抗の炎は消えなかった

カラタクスが捕らえられても、ブリタニアの完全征服はそう簡単には進みませんでした。ローマ寄りだったブリガンテス女王カルティマンドゥアは、元夫ヴェヌティウスの反乱によって国を奪い返されてしまいます。またウェールズ方面のシルレス族・オードヴィケス族も、ローマの要塞を包囲したり人質を取ったりと、粘り強い抵抗を続けました。
なかでも最大規模だったのが、60〜61年に起きたイケニ族の女王ブーディカの反乱です。国を奪われ娘たちも辱められたことへの復讐として、多くのブリトン人部族を巻き込み23万ともいわれる大軍を率いて蜂起。ローマ軍は一度敗れますが、司令官を代えて態勢を立て直し、最終的に奇襲によって勝利をおさめます。
こうした抵抗は約40年続きましたが、皇帝アグリコラの時代になると、ウェールズ方面もブリガンテスもついにローマに服属。ローマの勢力は北のスコットランド方面へとさらに広がっていきました。
興味深いのは、この征服劇が単純な力ずくの支配だけで終わらなかったという点です。40年という歳月のなかでローマの文化がブリタニアに浸透し、両者は少しずつ歩み寄っていきました。ブリトン人には、自分たちの生活やアイデンティティが脅かされると徹底抗戦する一方、それさえ守られれば案外寛容になるという気質があったようです。ローマもそれを理解していたのか、地方の統治は現地の首長たちに委ね、自治を認めるという形を取りました。ローマの完全支配ではなく、共存の道を選んだわけです。
支配されながらも、したたかに共存する道

ブリタニアという存在は、ローマにとって近隣諸国やローマ市民に威光を示す格好の材料でした。一方でブリタニア側にも、ローマにつくメリットは十分にありました。
当時のブリタニアの周囲を見渡すと、北にはピクト族、西のアイルランド(ヒベルニア)にはスコット族、さらに海からはヴァイキングと、絶えず外敵の脅威にさらされていたのです。自分たちだけで守るより、強大なローマ軍を後ろ盾にしたほうが圧倒的に有利。つまりブリタニアはローマに守られる側面もあったということです。ローマの司令官のもと、ブリトン人の首長たちは自治を行いながら辺境警備を担い、外敵を防ぐことでローマにも利益をもたらすという、持ちつ持たれつの関係が成立していました。
その象徴が、スコットランドに築かれたハドリアヌスの長城(122年〜)とアントニヌスの長城(142〜144年)です。いずれも現在ユネスコ世界遺産に登録されており、ピクト族の侵入を防ぐための最前線として機能していました。
面白いのは、ブリタニアの首長たちがローマへの反乱や自治権をめぐる内輪もめにあまり走らなかったという点です。無理に領土拡大を狙うより、ローマという後ろ盾を得て自分たちを守るほうを選んだ結果、外敵に囲まれながらも長く存続できた小国が多かったようです。もちろん、誇りをかけてローマに歯向かった人物がいなかったわけではありませんが。
弱体化する大帝国、燻る不満

時代は4世紀初めに飛びます。この頃になるとローマ帝国自体の力が弱まり東西分裂も進み、ブリタニアの統治にまで手が回らなくなっていきます。ローマは自国の防衛のためにブリタニア駐留兵を減らさざるを得ず、代わりにブリトン人の首長へ自治権を与えて辺境警備を任せるようになりました。
306年、ブリタニア長官だったコンスタンティウス1世が亡くなると、息子のコンスタンティヌスが西ローマ皇帝となり(のちに東西統一)、ブリタニアの統治はさほど地位の高くない地方官に任されるようになります。誇り高いブリトン人にとって、これは面白くない話でした。
伝説によれば、北ウェールズを治めていた実力者エウダヴ・ヘン(別名オクタヴィウス)は、この扱いに激怒し兵を挙げて長官を追放。コンスタンティヌスは新たな長官トラヘルンを送り込みますが、エウダヴは一度敗れてノルウェーへ逃亡したものの、仲間の支持を得て勢いを盛り返し、逆にトラヘルンを打ち破って長官の座を奪い返してしまいます。
ローマの本格的な報復を恐れたエウダヴは、思い切った手を打ちます。娘をローマ軍司令官の右腕マグヌス・マクシムスに嫁がせ、さらに自分の後継者に指名したのです。この政略結婚により両者の溝は埋まり、マグヌスは北ウェールズを拠点に平和な統治を築きました。
しかし平穏は長く続きません。380年頃、待遇への不満を募らせたローマ軍人たちがウェールズのマグヌスのもとに集結し、反乱を起こして西ローマ皇帝グラティアヌスを打倒。マグヌス自身が西ローマ皇帝の座についてしまいます。これに東ローマ皇帝テオドシウス1世(かつてのマグヌスの上司の息子)が反発し、両者は激突。388年、マグヌスは捕らえられ処刑されました。
マグヌス・マクシムスの生涯と「マクセンの夢」の伝説は、こちらの記事でくわしく紹介しています。
内乱に加え、この頃のローマ帝国はバンダル族やゴート族といった外敵の侵攻にも苦しめられ、410年にはローマ市自体が西ゴート族に陥落する事態に。もはやブリタニアに兵を割く余裕はなく、同じ410年、皇帝ホノリウスの時代についにローマ軍はブリタニアから撤退。事実上、ローマによる支配は終わりを迎えました。
ローマが去った後のブリタニアがどうなっていくのか――それは次回「ブリタニア時代」でお話しします。
おまけ:野心家が最後に選んだ、意外な生き残り方

実はエウダヴ・ヘンの政略結婚には、後日談があります。子どものいなかったエウダヴの後継者の座を狙っていたのが、甥のコナン・メリアドク。娘婿マグヌスに後継の座を奪われたことに激怒し、なんとマグヌスに戦いを挑んでしまいます。
しかし相手は百戦錬磨のローマ軍指揮官。コナンに勝ち目はありませんでした。ところがここでコナンは見事な方向転換を見せます。マグヌスの実力と将来性を見抜くと、あっさり態度を変えて和解し、その右腕として共に戦う道を選んだのです。
この選択は大きな実を結びます。マグヌスが西ローマ皇帝の座についた際、コナンはその戦いで功績を挙げ、報酬として現在のフランス、ブルターニュ地方の領土を与えられました。多くのケルト系ブリトン人を連れて移住したコナンは、ブルターニュの建国者と伝えられています。その子孫は代々この地を治め、今もブルターニュにケルト系の文化が色濃く残るのは、この移住が関係しているとも言われています。
ちなみに、後のブリタニア長官コンスタンティン3世やコンスタンス2世はコナンの子孫とされ、アーサー王伝説ではコンスタンス2世はアーサー王の叔父、コンスタンティン3世は祖父にあたるとも語られています。敵対から一転、忠実な右腕に転じたコナンの判断が、思わぬところで後の伝説にまでつながっているというのは、なかなか興味深い話です。
ウェールズ史全体の流れは、中世ウェールズ史を8つの時代でたどる記事でも紹介しています。





